旧日本軍性奴隷問題の解決を求める           全国同時企画・京都のブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

報告~その3 陳樺アマーのこと

 ご家族との関係で、まだ公に自分の被害体験を語ったことがない陳樺(チン・ホア)アマーは、この京都での企画が、人前で証言を語る初めての経験となった。数え年で83歳と言うが、おせじ抜きで60代後半から70代前半にしか見えない程、若く、しっかりした方だった。
 

 「フィリピンで看護助手を募集している」…働いていた工場にやって来た日本人に、声をかけられた。その日本人は家までやって来て、「変な仕事じゃない、大丈夫だから」と、アマーの両親を説得したという。しかし、実際に連れて行かれた所は、セブ島の「慰安所」だった。世間知らずで「慰安所」が何を意味するかもわからなかったが、「軍のために尽くすところだ」と説明された。朝9時から夜10時まで兵隊の相手をさせられ、嫌でも逃げることはできなかった。
 1944年、アメリカ軍の攻撃が激しくなり、日本兵たちと共に山の中へ逃げた。逃げる途中、たくさんの人が死んだ。12人いた「慰安婦」のうち、生き残ったのはアマーともう一人だけ。アマーは同じ「慰安所」にいたカレン族出身の女性の遺体から、髪の毛を持って帰り、台湾で埋葬してあげたそうだ。
 証言の前日は緊張して眠れないのだろう。もしかしたら、一睡もされていなかったのかもしれない。夜中の3時なのに、きちっと洋服を着て、鞄を探したり上着を探したり部屋を出たり入ったりしていた。「昔のことを思い出すとね、泣いてしまうよ」…証言をする日の朝、アマーは日本語で私たちにこう言って、涙をぬぐった。「本当は喋りたくない」でも、証言をするのは「言わなければ、ずっと心の中にとどまるから」。
 もしかしたら、言葉につまって話せなくなってしまうかもしれない…そんな心配もあったが、陳樺アマーは堂々と証言をされた。佛教大学で2度目の証言をされたときは、1回目よりも多く語り、たくさん泣いた。「感情を表現し、たくさん涙を流すのはアマーにとっていいことなんです」と、同行した台湾の支援団体のフウィーリンさんは教えてくれた。
 アマーを通してわたしたちは、語ることの苦しみだけではなく、語れないことの苦しみがあることを知った。戦争が終わり、解放されて60年以上たつ。「悪いのは自分ではない」「自分は恥ずかしい存在ではない」とアマー自身が自分のことを肯定できるようになるまで、長い長い年月が必要だった。わたしたちが企画した証言集会が、アマーにとって励みになるような場所であったことを願う。
 最後に、アマーからのメッセージ:
 「当時は天皇の為に、と性奴隷の生活を強制された。だから、わたしたちの要求は、日本政府ではなくて天皇にお願いしたい」
 

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

存在感のあるアマアだった

報告ありがとう。
チンホアアマアにはじて会ったとき、
「初めて」と思えない、なつかしい思いがした。
私たちの母の世代(70代)によくいるような、たくましくて、働き者の明るい印象の方だった。

心の底からの叫びのようなアマアの証言。
佛教大学でのアマアの姿は、今でも思い浮かびます。

お元気で、またお会いしたいです。

キリコ | URL | 2006年12月05日(Tue)15:20 [EDIT]


 

トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。