旧日本軍性奴隷問題の解決を求める           全国同時企画・京都のブログ

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ロラたちの証言

証言録に収録されているロラ(=おばあさん)たちの証言を抜粋して掲載します。

ピラール・フリアスさん
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 1927年、フィリピン・ルソン島南部に生まれた。42年の終わりごろから、日本兵がたびたび村に「ゲリラ捜索」のためやって来るようになった。ある日、叔母たちと3人で過ごしていると、5人の日本兵がいきなり家に侵入してきた。3人の日本兵は、叔母を家の裏に連れて行き、レイプし始めた。残り2人の日本兵が、わたしの方に向ってきた。一人の兵士がタバコの火をわたしの顔に押し付け、もう一人がジャングルナイフで鼻を斬りつけた。大量の血が流れるのを見て、日本兵は水を張ったドラム缶になんども顔を押し付けた。その後、大きな木に縛り付けられ、代わる代わるレイプしていった。
 1943年、家族と共に隣町に疎開したが、そこに再び大規模な日本軍の部隊がやって来た。わたしは日本兵に捕まり、連行された。わたしを含め、4人のフィリピン人女性がロープで腰をつながれたまま夜はレイプされ、日中には洗濯や炊事を命じられた。44年にアメリカ軍の爆撃が激しくなり、日本兵はわたしたちを置き去りにして逃げていった。わたしたちも、日本兵に見つからないように逃げた。
 わたしは戦争と性奴隷化という被害によって、尊厳を奪われ、処女を奪われ、いいようにされた。わたしは自分が価値の無い人間だと思って、非常に哀しい思いをした。これらはすべて日本軍が原因。正義を回復するために、1)教科書に事実を記載すること、2)被害者一人一人に謝罪すること、3)適当な補償をすることを日本政府に求め、これからも闘っていく。

プリシラ・バルトニコさん
 日本軍の占領中はシェルターに隠れて生活していたが、村の見張り番が日本兵に脅されて女性たちの隠れ家を教えてしまった。わたしは従姉妹と隠れていたが、外に出た隙に日本兵に捕まってしまった。まず、目の前で従姉妹がレイプされ、殺されてしまった。わたしは殺されるのが怖く、抵抗するのを諦めた。そして、日本軍が駐屯地としていた小学校に連れて行かれ、家庭科室のようなところでレイプされた。
 日中は飛行場で滑走路をつくる仕事をさせられた。ある日、のどの渇きに我慢できず「水をください」と日本兵に頼んだら、彼はわざとわたしの目の前で水をこぼした。屈辱的な気持になった。その様子を見ていた別の日本兵が、脱走の手助けをしてくれ、逃げ出すことができた。
 わたしは正義のために闘う。みなさんも一緒に闘ってくれると信じている。
※プリシラさんは06年4月21日に心臓発作のため亡くなりました。ご冥福をお祈りします。

バヒーナ・ビリヤーマさん
 1929年ネグロスで生まれたが、幼い時マニラに引っ越して来た。ある日、病気になった叔母に「食べ物を探して来て」と頼まれ出かけたところを、5人の日本兵に捕まってしまった。駐屯地ではロープに繋がれたまま、レイプされた。日中は掃除や洗濯を命じられた。見張りがいて、逃げることはできなかった。ある日、アメリカ軍が駐屯地を爆撃し、混乱状態になった。この隙に逃げよう!と思い、全力で川まで走り、蓮の葉の陰に隠れ泳いで逃げた。
 一緒に闘ってきたが亡くなってしまったロラ達の為にも、わたしは諦めない。若い人たちに、同じ苦しみを味わって欲しくない。わたし達の闘いを、子どもや孫達に引継いでいきたいと思う。

フェルシダット・デロスレイエスさん
 戦況が厳しくなり家族と避難生活を送っていたが、日本兵が来て「町に戻れ。戻らなければゲリラとみなす」とおふれを出した。仕方なく、もと住んでいた家に戻った。戻るとすぐ、学校が再開された。あるとき、先生が「日本の新しい部隊が赴任して来るので、出迎えパーティーをする」と言った。わたしは学校で教わった「見よ東海の空明けて」という日本語の歌を歌わされた。
 翌週、日本兵がわたしを呼びに来た。わたしは日本軍が駐屯地にしていた小学校に連れて行かれた。不安になり「帰る」と言ったが、小さな部屋に閉じ込められた。しばらくして5人の日本兵が来て襲いかかってきた。その日から、毎晩レイプされる日々が続いた。ある日、病気にかかり高熱が出た。次の日、日本兵はわたしに「帰ってもいい」と告げた。家に帰って、母親と抱き合って泣いた。わたしは何度も「死にたい」と訴えたが、母は「人の命は神様が決めるのだから、自殺してはいけない」と言った。そのおかげで、わたしは持ちこたえることができた。

ナルシサ・クラベリアさん
 1943年、12歳の頃、大きな日本の部隊が村にやって来て捜索をはじめた。日本兵は村長をしていた父を捕まえ柱に縛り付けると、銃剣で喉元の皮を痛めつけるように切り裂いていった。母は別の部屋に連れていかれ、レイプされていた。わたしたち姉弟は父と母の泣き叫ぶ声を聞きながら、どうしたらいいのかわからなかった。下の弟ふたりは、別の日本兵に捕まり棒で殴られていた。母はレイプされた後も、弟達を必死で守ろうとしていた。また別の日本兵がわたしたち3姉妹を捕まえ、連行していった。途中振り返ると、日本兵によって村が燃やされていた。両親や弟たちとは、その後二度と再会できなかった。
 駐屯地で、まず「寺崎」という日本兵にレイプされた。姉のセメテリアは、身体中に拷問でできた火傷の跡ができていた。他にもたくさんの女性が監禁されていて、毎晩泣き声が聞こえた。ある日、一人の女性が逃げ出した。日本兵は「連帯責任」として、わたしたちにひどい仕打ちをするようになった。わたしたちはたまたまアメリカ軍の空爆によって逃げ出すことができた。しかし、家は焼かれて何もかもなくなっていた。
 わたしは名乗り出るまで、夫以外は家族にも自分の経験を隠していた。しかし、正義を求める闘いを始めることになり、テレビに映った。子ども達はそれを見て「恥ずかしい!」と一斉にわたしを非難したが、夫が子ども達を説得してくれた。その後、子ども達はわたしを理解し、支援してくれるようになった。

アナスタシア・フォルテス・モリリオさん
 1920年パンパンガ州で生まれ、41年マニラで結婚した。しかし結婚後すぐ夫は徴兵され、バターン戦線で日本軍の捕虜となった。一度は脱走したものの再び夫は捕らえられた。そのとき、わたしも一緒にポートサンチアゴの留置所に捕らえられた。夫はそこで殺害され、わたしもそこでレイプされる日が続いた。少しでも抵抗すると、殴られたり蹴られたりした。ある日、義母と日本人神父が助けに来てくれた。しかし、妊娠していることに気づき一人で義母の家を出た。その後、中国人墓地の中にある食堂で働いていたが、店に来た日本兵に見つかってしまった。墓地に逃げ込んだが、日本兵に引きずり出され、多くの人が見ている前でレイプされた。ポートサンチアゴを出た後は二度とこんなことは起きないと思っていたので、ショックを受けた。
 その後、トランビア駅の近くのパン屋で働いた。あるとき電車にたくさんの日本兵が乗っていて、わたしを追いかけて来るのが見えた。びっくりして町を逃げまわり、たまたまいたフィリピン人警官に助けを求めた。しかし、日本兵はどこにもいなかった。わたしは幻覚を見ていたようだ。そのときの警官が二番目の夫となった。
 現在に至るまで、当時受けた屈辱やトラウマを忘れることができない。今でも、ふと当時の記憶が蘇る。「戦争だったから仕方が無い」という人がいるが、犯してはならない尊厳が日本人にもフィリピン人にもあり、戦争であろうとどんな状況であろうと許されるものではない。少しでも女性の尊厳を大切にする社会が実現するよう、闘いをやめない。日本政府の代表が直接わたしたちのところに来て、ひとりひとりに謝罪をして欲しい。

セミオラ・ノエボ・ラメルさん
 1928年ブラタン州で生まれた。ある日、おばあさんに命じられ山に薪を拾いに行った。そこで3人の日本兵に見つかり、捕まってしまった。日本兵は昔小学校だったところを駐屯地にしていた。わたしはひとつの部屋に監禁された。しばらくして3人の日本兵がやってきて、代わる代わるレイプした。その後、毎晩のように日本兵がやってきてレイプしていった。日中は料理、掃除、洗濯をさせられた。ある日、高熱が出て身体中が腫れ上がった。高級将校がわたしの傷を見て「帰れ」と言い、解放されることになった。帰ると兄弟がわたしの顔を見て、一緒に泣いてくれた。
 あるときテレビで「性奴隷の被害を受けた女性達は名乗りをあげるように」という訴えを見た。わたしはテレビ局まで出向いて行って、その組織に参加することになった。正義が回復されるまで、わたしたちは闘いを続ける。

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