旧日本軍性奴隷問題の解決を求める           全国同時企画・京都のブログ

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台湾訪問報告記

先日、メンバー有志で台湾を訪れアマー達と再会を果たしてきました。
以下にその報告を掲載します。長いですが、ぜひお読みください。

台湾でアマアと再会(2008年5月)
守田敏也
はじめに
 「僕はアマアのことを本当のお母さんだと思っているよ。だから台湾に必ず行くよ。アマアの家を訪ねるよ」。
 そう呉秀妹(ウーショウメイ)アマアに約束したのは2006年の秋。証言集会京都実行委員会の仲間たちは、約束どおり昨年2月に台湾を訪問しました。アマアが娘だと思ってくれている連れ合いの浅井桐子さんも同行しましたが、そのとき私は、運悪くどうしても外せない仕事が入って、直前で断念せざるをえませんでした。
 6月になってアマアたち一行が東京中野で証言をすると聞いて上京し、アマアたちと楽しい時間を過ごす事ができましたが、それでも約束を果たした事にはならない。今回の訪問はそんな私にとって、本当に念願かなってのものでした。
 台湾に旅立ったのは5月5日。台北空港は小雨が降っていました。京都と同じぐらいの気温で思ったより寒い。この日は自力で空港からホテルへとバスで向かい、その後に、同行した浅井さんと一緒に夜市にでかけました。
 私にとっては全てが初めてでとても面白い。夜市では、牛肉麺(ニューローミェン)と小龍包(ショウロンポウ)を食べ、少し離れたところでさらに何かの麺と、台湾ビールを飲みました。ちょっと食べ過ぎかなと思いましたが、これが大間違い。それから帰るまでの間、おいしい、おいしい台湾フーズが、もっともの凄いボリュームで、これでもかこれでもかと訪れてくるのでした。

(1)「ありがとう。ガムシャ。」
 さて翌日、朝9時半に、婦援会のウーホエリンさんが迎えに来てくれました。急遽、東京からかけつけてくれた柴洋子さんと、中村ふじゑさんも合流。彼女達は、ホエリンに口説かれ、私たちのアマアを訪問する旅に併せて来てくれたのです。柴さんはわずか2週間前にも台湾に来たばかり。このところ毎月1回のペースでの訪問になっているそうです。
 ホテルの外には、ホエリンの小さな車が停まっていました。韓国製の緑のかわいらしい車で、5人ではちょっと窮屈です。へえ、以外とかわいい車を選ぶのだなと考えていると、これが大間違い。この車は、どんなアグレッシブな運転にもめげず、どんな小さな道にも突っ込んで行ける、ホエリンのスーパーウエポンなのでした。
 まず私たちが向かったのは、李淳(リーチュン)アマアが暮らす老人施設。アマアは今年88歳。それまでお元気に暮らしてきましたが、だんだん足腰が弱くなり、さらに目が見えなくなってしまって、生活に不自由するようになったのだそうです。家ではアマアのことをとてもよく理解している息子さんが、手厚く介護してくれていたのですが、1人では支えきれなくなったため、ホエリンたちが探しまわって見つけたこの施設に1ヶ月前から入所したのです。
 私たちが訪ねたときはお年寄りたちが集まって、ボランティアの若い学生さんたちと一緒に唄をうたっていました。「もーもたろさん、ももたろさん、お腰につけた、きびだーんご」「咲いたー、咲いたー、チュリップの花が」「結んで開いて、手を打って、結んで」。どれも日本語です。お年寄りたちにとって、懐かしい子どもの頃の唄は、日本の唄なのです。
 暫く待っていると、唄の会が終わって、アマアが車椅子で押されてやってきました。ホエリンが耳元で「アマア、みんなで来たよ。日本からもたくさんアマアに会いに来た人がいるよ。柴さんと中村さんもいるよ」と大きな声でささやきます。
 アマアは認知症も進んでいて、相手が誰だか分からないときもあるそうですが、この日はとてもよく分かったらしい。私たちの方に手を差し出し、すぐに握り返されたみんなの手を握ったとたん、泣き出しました。
 「アマア、どうしたの。何が悲しいの。みんなで会いに来たのよ」。柴さんがアマアに語りかけます。アマアは「柴さん。ありがとう。柴さん。感謝(ガムシャ)」といって、さらに涙を流します。アマアの台湾語をホエリンが通訳してくれました。「私はね、もう死んだ方がいいんだよ。死ぬべきなんだよ。死にたいんだよ」
 「アマア、どうしてそんなことを言うの。もっと長生きしなくっちゃ。そんなこと言わないで」と柴さんが返します。「ああ、柴さん。ありがとう。柴さん。感謝(ガムシャ)」とアマア。でもアマアはさらに涙を流して、私はもう死んだ方がいいんだという。
 再びホエリンが通訳してくれます。アマアはこの施設に来て1ヶ月。優しい息子さんがその間、毎日2回も会いに来てくれるのですが、それでも夜はベッドの上で1人になります。アマアのベッドには転落防止の柵が添えてあるのですが、アマアはそのためにベッドから降りられないという。夜の看護を考えるとやむを得ない対処なのですが、それがアマアには淋しいのだそうです。家に帰りたいとアマアは言う。でも息子さん1人で、在宅看護をするのはもう限界なのです。
 涙を流しながらアマアは、こんな遠いところまで来てくれてありがとうと繰り返し、感謝の気持ちを示してくれる。淋しさの中にあり、認知症も進んでいながら、アマアは訪れた人に精一杯、何かを返そうとする。
 その後、アマアのベッドに移り、ご飯を食べるアマアをみんなで囲みました。アマアはご飯をむしゃむしゃと元気に食べてくれた。ちょっとほっとしました。でもその間にも、息子さんに、「みんなにご飯を食べさせてあげて」と繰り返しつぶやく。アマアはみんなをもてなしたいのです。
 残念ながら、台湾も日本と同じで、高齢者を十分にケアする社会的システムが確立してはいないようです。だから介護が必要なお年寄りの思いを満たしてあげるケアはなかなかできない。にもかかわらずアマアは、自分がみんなに迷惑をかけていると考えているようでした。だから「私はもう死んだ方がいい」と涙を流したのでしょう。
 「淋しいのだよね。アマア。柴さんが来てくれてよかったね。僕も京都から来たよ。」私もそんな気持ちで手を握りました。アマアは最後まで、「ありがとう。感謝」を繰り返していました。

(2)Mother’s day’s cake tour
 今回のアマアたちへの訪問のために、ホエリンは大きなケーキをたくさん用意していました。実は台湾も5月の第二日曜日が母の日なのです。ホエリンが、「守田さん。今回は母の日ケーキツアーだよ」と私に笑って教えてくれました。このときは受付の看護師さんにケーキを預かってもらいましたが、この先一行は、繰り返し、ケーキを食べる事になります。それもおいしい、おいしい台湾フーズの合間にです。
 次に向かったのは陳樺(チンホア)アマアのお宅でした。チンホアマアは、京都に来てくれたアマアのお1人です。しかも京都で初めて自分の体験を証言してくれた。とくに二度目の仏教大学での講演では、激しく身をよじって泣きながら、戦場での体験を話してくれました。そんなチンホアマアを、証言集会京都の仲間が昨年も訪れようとしましたが、おり悪くアマアの都合がつかずに会えなかった。それで今回は、ぜひ会いたいと、ホエリンにリクエストしていたのです。
 チンホアマアのお宅は、台北市内の住宅地の、マンションの一室でした。はじめ近くまでいって場所が分からず、車でいったりきたりを繰り返します。ホエリンの叫ぶ番地をみんなが聞いて、目を皿のようにして当該番地を探す。それでもなかなか見つからない。
 地図でも持ってくればいいのになあ、などと密かに心の中で思い出したときに、「やったー。みつけた」とホエリン。やっとアマアのお宅の前につきました。
 階段を上がって行って、アマアのお宅に入ると、白地のきれいな上着を纏ったアマアが出迎えてくれました。チンホアマアは、とても日本語の上手なアマアですが、台湾語で私らを招き入れてくれます。それはそうだよね。ここは台湾で、アマアのお宅だものね。
 中に入ると、赤ちゃんがハイハイをしている。あれ、お孫さんかな?それにしては小さすぎるし、と考えていると、アマアが「この子は預かっている子だよ」とすぐに説明してくれました。「奥でもう1人寝ているよ」。アマアは、娘さんと一緒に、他人の子を預かっているのです。しかも親が朝預けにきて、夜に引き取って行く場合もあれば、3ヶ月ぐらい、おいていく場合もあるそうです。これは台湾の温かい習慣のようです。
 暫くすると新たな来訪者がありました。その後、3日間、行動を共にしてくれたジェンユさんです。彼女は8年間、フランスに留学していて、今も民族学や心理学の研究をしている方で、ここ数年、アマアたちのサポートに係っているのだそうです。その後、彼女の運転する車に同乗したこともあって、ジェンユさんとはずいぶん意見を交換することができました。なんと彼女のお連れ合いは、日本現代史の研究者で、しかも水俣病を調べているという。ルポライターの鎌田慧さんとも親しく、著書の仏訳もしているのだとか。バックグランドの親近性があって、話が弾みました。
 中に入ってソファに座ると、今度は台所から、エプロンをつけたままのライ・グレシアさんが出て来てくれました。彼女は婦援会の中心人物。手料理が得意だそうで、今回も腕を振るって、待っていてくれたのです。やがて料理がテーブルに並べられだしました。酢豚、ビーフン、鶏肉のロースト、シュリンプの炒め物など、次から次へと皿がおかれていきます。どれもとてもいい匂い。
 みんなで、いただきますと唱えて、(はて、このときは何語だったろう?)食事開始。台湾の料理は、どれも八角など、日本ではあまり使われない香辛料が入っていて、独特の風味があります。しかも全体として油っぽくなく、食べやすい。馴染みやすい味でありながら、日本の味とはちょっとずつ違う所が,舌鼓を打たせます。私はせっかくのおもてなしだからと、結構、たくさん食べてしまいました。ローストされた鶏肉が絶品だった。
 ひとしきり食事が終わると今度は果物です。アマアが「台湾のバナナおいしいよ」といって房ごと渡してくれる。私はもうおなかが膨らんでいる気がしましたが、横で浅井さんが「バナナは別腹よね」といって、パクパク食べている。いつも私よりは小食な彼女なのでちょっとびっくり。「そうかなあ、別腹かなあ」と思いつつ、私も口にしてみると、たしかに甘くてとてもおいしい。
 うーん、もう入らないぞと思っていると、ホエリンが“It’s cake time!”と戯けた声を出し、ケーキが箱から出されます。チーズケースをベースにした大きなハート形のケーキで、母の日と書いてある。そこに蝋燭を一本だけたて、火を灯して、みんなで唄をうたいはじめます。「ハッピーバースデイツーユー、ハッピーバースデイツーユー」。なんと唄はおなじみのあの唄です。そして唄い終わるとアマアが火を吹き消し、ケーキに入刀。その後、ケーキがてきぱきとわけられ、みんなに振る舞われました。この頃には、婦援会のリーファンも合流。にぎやかさがましていきます。

(3)媽祖と観音
 ケーキを食べ終えて、暫く歓談をしてから、アマアがボランティアで通っているお寺を訪れることになりました。車で少しの距離。ついてみると極彩色の何とも立派なお寺でした。アマアと一緒に中に入ります。内側も色とりどりの装飾がなされていて、大変きれいです。私は京都の仏教のことを少し学んでいることもあって、随分、興奮してしまいました。興味津々の私の様子を見て、ジェンユさんがいろいろと解説をしてくれたので、アマアが深い信仰を捧げているこのお寺について、少し説明したいと思います。
 お寺は真ん中に大きなお堂があり、一つの建物になっています。そのまわりを、ぐるりと四角に別の建物が囲っている形で、これが五階建になっている。
 お堂の中には、本尊の媽祖(マーズ、Mazu)が奉られています。女性の海の神で、親しみを込めてアマアと呼ばれることもあるそうです。この神は道教の神です。宋の時代に、今の福建省のある島で、霊力を持った默娘という女の子が生まれました。彼女は周りの人の病を治したり、海岸の火を焚いて、船が遭難しないようにしたりして、村人の賞賛を集めていましたが、あるとき父親が海難事故に合ってしまいました。嘆き悲しんだ彼女は、父を捜す旅に出て、仙人と出会い、導かれて神となったと伝承されています。また彼女自身も遭難し、現在の馬祖島に打ち上げられた後に、神になったとの伝承もあるそうです。馬祖島の名前の由来ですが、そんな彼女は、航海を守ってくれる神です。
 媽祖信仰は、おもに福建省あたりに民間信仰として広がり、それらの人びとが大陸から渡ってくる中で、台湾の中にも根を下ろして行ったようです。ちなみに媽祖は日本にも入って来ていて、オトタチバナヒメの名で信仰されているそうです。青森県には、媽祖を本尊としているお寺もあります。
 この媽祖の周りには観音菩薩もいる。つまり仏教の神です。正確には神とは言わないのですが、大乗仏教の中の法華経に登場する菩薩です。ちなみに菩薩とは、悟りを求めて修業しているものをさします。悟りを開くと如来になる。観音(観世音)菩薩は、本当はすでに悟りを開けるのですが、迷える人びとと一緒に悟りの境地にわたることを目指して、人びとと苦楽を共にしています。これを菩薩道といいます。
 観音信仰も、やはり大陸から渡って来て、台湾に深く浸透したとのこと。このため台湾の民間信仰は、道教と仏教が混在したものが主流だそうです。これに儒教も加わり、三者のミックスの信仰が行われています。
 これは大変、面白い。日本の信仰形態とも似ています。日本では、もともとさまざまな地域信仰が広がっている地盤の上に、6世紀頃に大乗仏教が導入されました。その中心も法華経です。そのため日本も観音信仰が大変強い。
 特に京都における法華経の位置は絶大です。観音菩薩は、法華経の中の観音品に登場する菩薩で、これが独立して観音経ともなっているのですが、観音菩薩を本尊にしているお寺に、清水寺や三十三間堂などがあります。五山の送り火の一つの「妙法」も、法華経のより詳しい名である「妙法蓮華経」からとったもの。妙法とは至高の教えの意味です。中世から近世にかけて、京都に発達した町衆は、その多くが法華宗であり、戦国時代には、自治都市でもあった京都を守る為に法華一揆を組織しました。禅寺の多くも観音経を重要教典とするなど、法華経の影響力はすみずみにまで及んでいるのです。
 しかもこれに仏教以前からあった地域信仰が溶け込んでいます。のちに奈良時代から平安時代の朝廷が、自らの統治を正当化するために、これらの地域信仰をまとめたものが神道ですが、日本ではこれが仏教に溶け込んで伝承されてきた。いわゆる神仏習合です。なんでも一緒に拝んでしまうおおらかな在り方が、台湾と日本には共通しています。
 また観音経を読んでみると分かるのですが、観音菩薩は、やはり海難から身を守り、あるいは盗賊を防ぐなど、商業活動を守護してくれる神として捉えられています。船で宝物を運んでいるときに、嵐にあって船が沈みそうになる。そのときに観音菩薩の名を一心に唱えると、助けに来てくれるとされるのです。また宝物を運んでいて盗賊に襲われた時に、やはりその名を唱えると助けに来てくれると書いてあります。
 これらから分かることは、媽祖や観音菩薩信仰の背景には、海を渡り、山を越え、物品を運んで生活していた人びとの切実な願いが横たわっていることです。このことに思いをいたすと、台湾の歴史的な成り立ちが少し見えてくるように思えます。中国南部と、台湾島を拠点としながら、おそらくは東南アジア一帯を行き来した人びと、あるときは沖縄へ、そして日本列島へ、またあるときはフィリピン、ベトナムへと活動した人びとの生活がそこにあったのでしょう。沖縄の言葉でいう海人(ウミンチュウ)の暮らしです。
 こうした海洋民に特徴的なことは、他者に対して非常にオープンで温かいことです。互いに船が嵐に遭遇した時に、最寄りの港に避難させてもらわねばならなかったため、また日常でも互いに他者の港で、水と食料を補給しなければならなかったため、水平的で互恵的な関係が作られやすかったからです。もちろん訪れてくる民は、アジア各地からの民です。言語も習慣も多様であるため、ただおおらかにそれを受け入れ、相手にあわせていくことが、友好関係を保つ秘訣になります。
 沖縄には、「いちゃりばちょーでー」という言葉がある。一度会ったら兄弟だという意味ですが、台湾の人びとと接していても、そんな、大らかで温かい気風を感じます。
 また道教についてはよくわかりませんが、法華経は、非常に強い現世肯定を特徴としてもいます。この世を楽しむことが奨励されている。そこから他者を楽しませること、他者に喜びをもたらすことに強い価値がおかれているのです。京都の諸芸能や、建築の技巧なども、この法華経の影響を非常に強く受けています。その典型は茶道です。茶道の原点のもてなしの心の源流を探って行くと、法華経に辿り着きます。
 媽祖と観音菩薩を敬虔に奉っている台湾の人びとを見ていると、明るく、楽しく、どこまでももてなしてくれる台湾の人びとの原点が、垣間みれるような気がしました。

(4)祈りを捧げる
 さてチンホアマアとの参拝に話を戻しましょう。初めに一行は、線香の束を買って火をつけました。台湾の線香は日本のものより大変長い。50センチぐらいはあるでしょうか。それにはちゃんとした意味があります。
 まずは本尊である媽祖に参拝。その前に線香をさすと、続いて右回りで外側の建物を歩いて行きます。そこにも色々な神々が奉られている。その前で祈りを捧げ、またいくつか線香をさします。そうしてお寺の中をぐるっとまわっていくのです。
 しかも奥まで行くと、二階に上がる。そこにも神々がいて線香をさし、さらに三階へ、四階、五階へと上がって行き、そのつど参拝して線香をさすのです。そのために線香は長い時間燃えている必要があり、またたくさん持っている必要があります。
 チンホアマアはとても信心深い。丁寧に一人一人の神に祈りを捧げて行く。その後ろを私たちが一緒にお祈りしながらついていきました。
 ある階までいったときのこと、写真撮影に追われていた柴さんが、線香の束を一度に全てさし、写真を撮り終えてからまた抜き取りました。とたんにアマアとホエリン、ジェンユ、リーファンからブーイング。「柴さん。神様がおこっちゃうよ」と笑いながらホエリン。ジェンユはもう少し真面目な顔をして「それは駄目」と一言。
 「え、そうなの?もう一度、とっちゃいけないの?でも写真機の邪魔なのよね。あらどうしましょう」と動揺する柴さん。実は柴さんの心の中では、「チンホアマアの信仰は大事にしてあげたい。でも私は信じているわけではないし、どうしましょう」という思いがぶつかっていたのでした。そんな心を鋭く読み取ったかのように「柴さん。もっと深く信じなさい」とニヤニヤしながらホエリン。結局、線香はもとのところにさし、ジェンユが柴さんに手持ちの線香を分けてくれました。
 さらに階を上がって今度は神に願いをすることになりました。赤い二つの木片を持ち、祈って下に落とす。表と裏になったら、願いを叶えてくれます。表と表、裏と裏なら駄目。
 私がやってみると、表と裏へ。みんなが拍手します。やっぱりなんだか気持ちがいい。浅井さんも表と裏になりました。中村さんもOK。でも柴さんが試みると、表と表。ホエリンがげらげらと笑う。「やっぱり柴さんは信心が薄い。もっと真剣に祈らなくちゃ駄目」とみんなにはやしたてられます。「柴さん。もっと深く祈るんだよ」とアマア。
 ホエリンいわく、これは三回までトライできるとのこと。柴サンにはまだチャンスがあります。それでもう一度トライしたけれど、またうまくいきません。「もっと深く、もっともっと」と一行。三回目のトライで木片は表と裏に分かれてくれました。みんなで拍手。柴さんはやれやれという表情です。考えて見ると、3回連続でうまくいかない確率は8分の1。たいていはうまくいくようになっています。台湾は、神様もおおらかで優しいのでした。
 こうしてお寺の中を楽しみながら参拝して、再び一階に下りてきました。そこで紙幣の変わりの黄色い紙を買い込み、火にくべる。供養です。それでお寺を出ました。残念ながらアマアとはここでお分かれ。ジェンユとリーファンがアマアを家に送って行ってくれ、私たちは次に向けて出発。アマアはニコニコしながら手を振ってくれました。
 チンホアマアの家は温かく、赤ちゃんもいて、豊かで穏やかな生活が営まれていました。またアマアは、そこからお寺に通って、信心深い生活を送っていました。アマアの今が幸せなことを感じて、温かい思いで次に向かいました。

(5)2・28事件のこと
 一行は再びホエリンと日本人4人。私たちが向かったのは、私がリクエストした2.28記念館です。1947年の事件を扱ったもので、近年、建てられたものです。
 1945年、大日本帝国の敗戦に伴って、台湾は日本の統治の手から解放され、代わりに蒋介石の国民党政府が移ってきます。台湾の人びとは、「祖国復帰」に沸き立ち、熱烈歓迎で国民党を迎えます。ところが国民党の姿は台湾の人びとの期待を、深く裏切るものでした。腐敗が激しかったのです。また日本語を話す台湾の人びとを敵視し、新たに作られた政府の要職からも排除するばかりか、ごろつきのような国民党軍兵士が、乱暴狼藉を繰り返し、人びとの怒りが高まりました。かくして1947年2月28日、些細な事件から始まった政府への反乱が、瞬く間に全土に広がりました。わずか数日の間です。人びとはかつてNHKが使っていたラジオ局を占拠し、日本語で「台湾人は起ち上がれ」という放送を行いました。
 国民党は、大陸からの増援部隊の助けも借りて、大規模な鎮圧作戦を開始。全土でおよそ3万人を殺害したといわれますが、詳しいことは今も調査中です。国民党はさらに台湾の人びとの財産の多くも奪い、そのまま長きにわたる軍事独裁の時代を続けました。その後、長い時を経て、民主化が進み、ようやくこの事件のことも語れるようになって、記念館の開設を迎えたのです。建物は、事件のときに全土放送を行った放送局のものです。
 展示をみていくと、国民党が当初行った統治のひどさ、怒りに駆られた人びとが立ち上がった正当性が、しっかりと表示されていました。さらに進むと、円形になった部屋がありました。内部の壁一面に犠牲者の写真が貼られています。日本の撤退後に、台湾人による新政府樹立の動きをリードしていた人びとで、優先的に処刑されてしまったのでした。
 ここでホエリンが、ちょっとシリアスな表情をして語りました。「韓国から挺隊協の人たちを招いたとき、ここが一番、印象的だと言っていたのよね。でも、ここに貼られている犠牲者達の遺族は、私たちの運動にとても否定的なの。あの人達は、国民党の酷さとの比較で、強い親日家で、だから日本政府を訴えた私たちの活動は、一切、評価しないのよ」。
 そこには台湾の複雑な近現代史が横たわっています。柴さんが語りました。「そんな状況から声をあげたのだから、アマアたちは大変だったわよね。でも16年間かけて、アマアたちの立場は、台湾の中でも随分、向上したわよね」。
 親日色の強い台湾で、声をあげたアマアたちと、それを支えて来た人びとの苦労が偲ばれました。もう一度、ここをみんなと訪れたいとの思いつつ、記念館を後にしました。

(6)ウェディングの写真が大好き
 続いて、台北駅に行って、ショッピングです。話の中でホエリンに「チャイナ服を買いたいんだけど、高いのが多いね」といったことがきっかけで、「凄く安いところがある」とひっぱっていってくれたのです。ショウメイアマアもここで幾つか買ったとか。それで駅の地下街の店にみんなで押し寄せました。みんな興奮状態。やがてそれぞれ何着か買い込み、柴さんと中村さんはそれから毎日、その服を着ることに。店を出ようとすると、店のおばさんが、“See you tomorrow”だって。やるなあ。おばさん。
 地下街では、何とも面白い占いコーナーにも行きました。これがなかなかあたる。身体の悪いところとか、ばしばし指摘してくる。特に浅井さんには「あなたは人を助ける天命を背負っている」とのお告げでした。ウーン。鋭いかも。
 さらに繁華街を歩き回って、ようやくホエリンの車に辿り着きました。次はどこにと聞くと、別のアマアの家にいき、一緒に食事をするのだといいます。それでみんな車に乗り込みました。
 一行が向かったのは陳鴦(チンヤン)アマアのお宅です。帽子の似合うアマアで、日本で働く優しい娘さんもいて、何度も日本に来ているそうです。
 ところが、車が全然、つかない。途中からホエリンが、Uターンを繰り返しだします。電話を取り出したホエリン。車をビュンビュン走らせながら、彼女が働く新聞社の同僚にコンタクトを取って、道を聞きます。「今、○○路にいるんだけど。えっ、違う?反対方向?」とかそんな感じで話している。それでまたまたUターン。でもまた分からなくなる。それでまた同じ人に電話。「えっ、また違うの?ワッハッハ」とかホエリン。“OK Morita san. We need more 20 minutes.”と彼女。でもホエリン、僕はホエリンの1分が何を意味するか知っているよ。
 車は夜の町をビュンビュンと快走します。道が分かっていようと、迷っていようと、スピードは変わらない。時刻はすでに午後8時間半をまわっています。ホエリンの電話がなりました。ホエリンが笑いながら何か答えている。電話を切ると「アマアが、ホエリン、今どこにいるんだ?だって。ワッハッハ」とホエリン。つられてこちらもワッハッハと笑ってしまいました。でも笑っている場合ではないような気がするのだけれど。
 やがてやっとの思いで車がアマアの家につきました。その間、ホエリンの同僚は1時間以上も電話でナビをしてくれました。なんという忍耐強さ。これも台湾の人の特徴なのかもしれない。それにUターンを繰り返すホエリンに、他の車から文句がこない。日本だったらクラクション必至の場面でも、みんな待っていてくれます。
 すごく遅くなってしまったのに、みんなでウキウキしてアマアのお宅に。時刻は午後9時過ぎ。アマアはマンションの一室に、家族と一緒に暮らしていました。お孫さんの男性が丁寧に出迎えてくれましたが、彼は東京で働いていたこともあり、日本語がとてもお上手です。それにものすごく細やかな気配りをしてくれる。「私はおばあさんに育ててもらったのです」と語っていました。
 アマアとお孫さんと一行で近くのお店に夕食に出ました。もちろん台湾料理です。お店の名前は「金山鴨肉」。色々な炒め物が出てきました。お孫さんが「これはちょっと変わっていますよ」と頼んでくれたのは、イカの炒め物。八角などの香辛料が使ってあって微妙な味が良い。おなじみのマーボードーフや、焼きそばもありました。他にも幾つかの炒め物。これに台湾ビールがついて、言うことなしです。
 お腹いっぱい食べてから、もう一度アマアのお宅へ戻りました。柴さんがアマアにたくさんの写真をプレゼント。二週間前に、アマア達一行と、金門島に遊びに行った時のものだそうです。柴さんは台湾訪問の度に、前回、アマア達と一緒だった時の写真をたくさん焼いて持参し、アルバムに入れて、アマア達に配り歩いています。アマアたちは写真をとても喜ぶ。
 ひとしきり柴さんの写真を見終わると、アマアの寝室に入って、アマアが出して来た色々な写真をみんなで楽しむ事になりました。アマアが一番嬉しそうに取り出したのは、大きな額に入ったウェディングドレスを着た写真です。それを抱えて、本当に嬉しそうに笑う。アマアたちにとって、いつまでも心に残るイベントだったのですね。
 その間に、ホエリンは、アマアのタンスだとか引き出しとか、どんどん開いてチェックをしてしまう。おそらくアマアの生活を把握しているのでしょう。アマアは、まるでいたずらな孫娘の仕草を見ているようで、なにもとがめません。
 お孫さんは、「すいません。これから子どもの勉強をみなければなりません」と、上の階に上がっていきました。本当に優しい方ですが、そうするとアマアの周りには、ひ孫さんもいることになります。アマアは、優しい家族と一緒に、温かく暮らしています。
 お別れのときが来ました。玄関で名残惜しそうに手を振ってくれるアマアに別れを告げて、マンションを後にしました。
 帰りの車は、本当にあっというまに台北につきました。ホエリンが「何か食べるものがいる?」と聞くので、みんないっせいに横に首を振りました。ホテルについたのは午後11時過ぎ。ホエリンは「明日はUターンはしないわよ。地図をばっちりチェックしていくから大丈夫!」と言い残して帰って行きました。

(7)病院にお見舞いに
 翌日、朝9時半にホエリンがホテルに迎えに来てくれました。ジェンユとフーリンも一緒です。車2台に分乗して7人での行動です。はじめに向かったのは阿真(アジン:カムアウトしていないので、仮名)アマアの入院している病院でした。アマアは胆石だそうで、手術を控えているとのことです。
 着いたのはとても大きな病院でした。日本の病院と比較して廊下が大変広い。車椅子やストレッチャーの行き交う病院で、廊下の広さは大切なポイントです。ところが、その廊下のあちこちに、ベッドが置かれていて患者さんが寝ている。付き添いの人もそばに。
 この人たちは、なぜ部屋に入っていないのか、柴さんを介してホエリンに聞いたところによると、病室が足りなくて、入室待ちしているのだそうです。アマアも一週間、廊下で待っていたらしい。ずいぶん、たくさんの患者さんが外にいました。台湾では医療供給が需要においついていないのでしょうか。
 アマアの病室につきました。大きな部屋に6人が入室していて、大きなカーテンで互いが仕切られています。その真ん中にアマアがいて、横に娘さんが簡易ベッドを置いて付き添っていました。アマアはとても端正な顔をされた方で、娘さんも素敵です。そこにホエリンを先頭にどやどやと入って行くと、アマアの顔がパッと明るくなりました。傍らにアマアの呼吸訓練のための小道具が置いてあります。チューブを持って息を吸い込むと、透明な箱の中のピンポン球上の3つのボールが上にあがる仕組みです。それをホエリンがおもちゃにして遊びだす。みんなで吸い込み合戦です。アマアは上手に吸い上げることができる。柴さんがトライしましたが、なかなかうまくいかない。「アマア。私の方が入院した方がよさそうね」と柴さん。そのときお孫さんが入ってきました。彼も優しそうな男性です。26歳で、もうすぐ結婚するのだとか。呼吸訓練器を手にすると、見事にボールが上にあがりました。みんなで拍手。
 この遊びに飽きると、さっそくケーキの登場。昨日と同じ、大きめのハート型ケーキです。それをベッドの上に座るアマアの前に置いて、蝋燭をたてました。ライターがないので、火をつけたフリをすることに。そしてみんなで「ハッピーバースデイ」を合唱。アマアがフーッと蝋燭に息を吹きかけました。一斉に沸き起こる拍手。続いて、ベッドの上でケーキが切り分けられ、みんなに配られます。その傍らを、時折、隣のベッドの主治医が通り抜けましたが、何のお咎めもなし。私も始終、カメラのフラッシュを焚き通しでした。
 やがてアマアにお別れを告げて病院を出ました。アマアは、病気はしているけれど、顔色もよく、何よりも優しい娘さんやお孫さんに囲まれて、穏やかな顔をしていました。

(8)新竹基地跡を訪ねて
 続いて、車は新竹(シンツー)市に向かいました。台北市の西南60キロ弱、台湾海峡に面した町です。客家の人たちが多く住む町でもあります。ここにはやはり客家出身の、二人のアマアたちが住んでいます。
 新竹はまた旧日本海軍の飛行所があった町で、日中戦争のときは、南京市などへの空襲の拠点にもなりました。ナチスドイツのスペイン都市ゲルニカへの空襲と並び、日本海軍が世界で初めて行った、空襲という名の民間人殺戮作戦の出撃拠点の1つが、新竹基地だったのです。
 その後、太平洋戦争の末期の1944年に、次々と太平洋上の戦闘でアメリカに敗北した日本は、10月に沖縄の那覇市に対する初めての本格的な空襲を受けました。那覇の町は壊滅的な被害を受けましたが、翌日には、同じ米軍部隊によって、新竹も攻撃されています。
 その頃、日米両軍の主力は、フィリピンで激しく衝突していました。レイテ島に上陸を強行した米軍は、日本軍を撃破しながら、セブ島へ、ルソン島へと展開していきました。この戦闘に投入された日本の陸軍部隊は、その95%が死亡しています。その激しい、セブ島の戦場の中に送り込まれていたのが、チンホアマアでした。
 このとき、米軍の圧倒的な物量の前に追いつめられた日本軍は、航空機による米艦隊への体当たり攻撃を開始します。特攻隊の登場です。特攻作戦は、フィリピンを米軍に完全制圧された後は、主に沖縄本島に迫り来る米軍艦船への攻撃として行われ、終戦までに約3000名弱が戦死しました。
 海軍航空隊の基地だった新竹も、特攻隊の基地に変貌しました。日本本土から自爆攻撃のための若い兵士が送り込まれ、沖縄の海上へと飛び立って行きましたが、基地の周辺には、明日には命を落とす兵士たちのための「慰安所」がありました。そこに性奴隷として連れてこられた1人が、韓国の李容洙(イヨンス)ハルモニでした。
 元特攻隊員が作るホームページから、新竹基地からの攻撃の様子を見ると、合計で22機の出撃が記録されています。隊員数は50人。2人乗り、3人乗りの飛行機も使用されたため、機体に比べて人数が倍以上になっています。
 この飛行場は、海岸線に面していて、今では、台湾空軍の基地になっていますが、かつてここを訪れた李容洙さんによって、その東ウイングあたりに慰安所があったことが証言されています。今回はさらに、この飛行場から数キロ離れた新竹市立動物園の付近に、慰安所として使われたとおぼしき建物が発見されたとのこと。4月に韓国の挺隊協が訪れ、慰安所跡地として認定したとのことですが、私たちも、そこを訪ねました。
 はじめに新竹市内の公園にいき、盧満妹(ルーマンメイ)アマアと合流しました。小雨が降る中、車に近付いてきたアマアは、段差を踏み外してよろけ、車にもたれかかってしまいました。少しお酒も飲んでいたようですが、「アマアの足腰が、随分弱くなっている気がするわ」と柴さん。マンメイアマアは、流暢な日本語がとても印象的なアマアで、いつも元気にテキパキとしゃべっていますが、だんだん身体が弱ってもいるようです。
 この動物園に付くまでも、やはり車は何度かUターンしました。私はジェンユの運転する後ろの車にいましたが、ホエリン操る前の車が突然、方向を変えるので、ついていくのが大変です。一度は交差点の真ん中で突然、くるっと向きをかえて、そのままとんでもないところに停まってしまいました。「警察から違反切符が届かないことを天に祈るわ」とジェンユ。しかしこうしてトンでもないところに停まっている2台を見ても、クラクションを鳴らす車はなし。そうこうしながら走り続けて、ようやく動物園につきました。
 激しい雨に変わった空模様を見ながら、みんなでお目当ての建物へ。ホエリンの説明を受けましたが、建物は思ったよりも新しい。改修が施されているとのことですが、見ただけでは、それがかつてどのように使われたのか、よく分かりませんでした。
 動物園の中にも入り、何か古い建物の跡を感じるところはありましたが、ここでも一見して跡地と思えるところはありませんでした。周辺の古老からの聞き取りなどをするとよいと思うのですが、婦援会になかなかその余裕はなさそうです。これは本来、日本政府と日本人が、やらねばならない仕事だなと思いながら、当地を後にしました。

(9)客家のアマアたち
 車はもときた公園の近くに戻りました。マンメイさんの家の近くだそうです。そこで少し遅めの昼食をとることになりました。新竹に来たら、これを食べなくちゃと、案内されたお店で出て来たのは、きしめんに似た麺でした。スープは濃い目ですが、全体的にあっさりしていてとてもおいしい。つきあわせは何かの腸詰めのようなものと、根心菜という地元特有の菜っ葉の炒め物でした。これも香りがよくて大変美味。
 食べ終わると、再度車に乗り込んで、ちょうどマンメイさんのお宅の裏手のあたりにある小山をぐるぐると上がって行きました。ついたのは、蘇寅嬌(スイエンジャオ)アマアのお宅です。古い台湾の家の作りになっていて、正面に門があり、三方が建物になっています。ビデオ「アマアたちの秘密」の舞台になっていて、初めに二人の姉妹が話をしているあの家です。その姉妹のお姉さんが、このアマアでした。妹さんの蔡桂英(ツァイクウェイイン)アマアも同じ家に住んでいましたが、2006年4月6日に亡くなられました。
 中から息子さんと娘さんが出て来て、歓迎してくれました。家族が温かい歓迎をしてくれるところは、アマアたちが温かく扱われる場でもあることが分かって来たので、とても嬉しい気がしました。
 少し古い作りの家の中に入って行くと、エンジャオアマアが笑いながら迎えてくれました。マンメイアマアも一緒に入って行きます。二人は大の仲良しだそうです。マンメイアマアは、自分の家から、毎日、小山の階段を上ってこの家にやってくる。一日顔を見せないだけで、エンジャオアマアはどうして昨日はこなかったのだと聞くのだそうです。
 居間に入ると、ちょうど窓を背にした一番の場に、2つの椅子がおいてあり、それぞれにアマアたちが座って足を組みました。これがいつもの二人のポーズなのだとか。二人並んでいる姿はとても微笑ましい。
 その真ん中にホエリンが、ケーキをおきました。またまたあの大きなハート型です。蝋燭を建てるとみんなで手を叩いて合唱。やがてアマアが蝋燭を吹き消しました。アマアが入刀してからケーキが切り分けられ、再びみんなに配られます。ちなみにこのケーキはとても甘い。カロリーもたっぷりな感じで、胃にもずしっと入ってきます。
 再び柴さんが持って来た写真を見て盛り上がり、歓談が続きました。会話の大半は台湾語。アマアたちは、私たちの日本語も解してくれる。浅井さんがアマアの横に座って、小さい手を包み込んで「かわいい手ね」と言うと、嬉しそうにはにかんで笑いました。
 その後、中庭に出てみんなで撮影会。初めに二人のアマアが並びました。まるで姉妹のような姿に、何代ものカメラのフラッシュが焚かれました。チャイナスタイルの服を着た柴さん、浅井さんがその横に並び、次にホエリンが飛び込むと、次々とみんなが写される側に。それでいろいろなポーズを繰り返す。台湾では写真を撮られることも、楽しい遊びになってしまうのでした。
 アマア宅にお別れを告げ、もう一度、小山を下ってマンメイアマアの家にいきました。マンメイアマアは新竹市内に部屋を借りて、1人で住んでいます。裏手に息子さんがいるとのことですが、部屋の中にいるのはルルという犬だけ。ゲージの中にいてあまり外に出てないとのこと。毛並みもちょっと汚れていました。
 マンメイアマアの部屋は、タバコの脂が全体についていて、整理整頓があまりされていませんでした。炊事もあまりしていないように見えました。もっと生活への支えが必要なんだなと感じ、失礼かもしれないけれど、少し淋しい感じがしました。私たちに日本から支えられることはあまりに少ない。「このままマンメイアマアが弱って行くように思えてとても心配だわ」という柴さんの言葉が印象的でした。
 アマアの家ではみんなでテレビを見ました。台湾のテレビは100以上のチャンネルがあります。ニュース、バラエティの他、台湾ドラマ、韓国ドラマ、ハリウッド映画、日本ドラマ、日本バラエティなどがあり、さらに株の特集番組、仏教のお坊さんの番組など、実に多様です。しかもその多くに中国語や台湾語の字幕がついている。英語字幕もさらに加わっていたりする。アマアたちの中には、テレビで日本の番組をみる方も多いようです。 
 この日も、日本のバラエティを暫くみんなで見ていました。多言語社会台湾の一面です。アマアたちの中に、今も日本語をすらすらと話せる人がいる理由が分かる気がしました。
 午後9時を回って、アマアの家を後にすることになりました。アマアは家の外まで出て見送ってくれました。アマアにはもっと生活の支援をしたい気がします。でも私たちにできることはあまりに少ない。もどかしい思いをしながら、台北に戻りました。
 市内に入ると、郊外に住んでいるジェンユは先に帰ることになり、リーファンも同乗していきました。私たちはホエリンの車でさあこれから食事です。ホエリンが辿り着いたのは、彼女の家のそばにある夜市。「ここがおいしいのよ」と彼女が案内してくれたのは、豆乳屋さんでした。台湾の豆乳は、ホットとコールドが選べます。熱々のものを頼むと、どんぶり一杯になみなみとつがれて出てきました。ホエリンが「かき混ぜて飲むのよ」と教えてくれる。底に砂糖が入っているのです。これがとてもおいしい。
 さらに肉まんのようなものを注文してくれました。中にはたっぷりの野菜が詰まっている。これがもう本当においしくてたまらない。そして小龍包に、焼いた卵をパイ生地のようなもので包んだものが出てきました。思わず声が上がってしまいます。
 夜市はとにかく楽しい。このお店は午後5時に店を開け、翌日の午前11時まで営業しているのだそうです。夜通し誰かが食べに来て、夜が明けると朝食を食べに来る人が訪れる。なんだか台湾社会のパワーの源がここにあるような気がします。
 お店を出て、暫く付近を散策。フレッシュな果物が並んでいる店をみて、思わずふらふらと中に入って行ってしまいました。いくつかの果物を買った柴さんと中村さん。でもいつ食べるんだろう。そう思っていると、ホエリンが、どこからかピーナッツと豆乳を混ぜ合わせたようなドリンクをお土産にと、みんなに買って持って来てくれました。ウーン、おいしそう。でもいつ飲めばいいんだろう?この日もいっぱいのお腹を抱えて車に乗り込み、ホテルまで送り届けてもらって、そのままぐっすりと寝たのでした。

(10)柴さんのお話
 第3日目はショウメイアマアと会う日です。朝食はこれまでの日と同じようにホテルのバイキング。でも前日から控えめに食べるようにしていました。柴さん、中村さんもこのホテルに滞在していて、朝食の間の少しの時間に4人で歓談しました。さらに夜に時間を取って、日本での運動のことなど話し合いたいと思っていましたが、そんな時間を期待するのは大間違いだったのでした。それでも今回、行動中に、柴さんのお話も聞くことができたので、少しそのことも書いておきたいと思います。
 柴さんはご両親が戦前戦中にハルビンにいらしたそうです。敗戦後に引き揚げますが、ソ連軍が満州地区に攻め込む中での、大陸からの日本人の引き揚げは、悲惨を極めました。多くの人びとが命を落としたり、家族を失ったり、財産を亡くしたりし、またソ連軍によってレイプされた女性もたくさんいたと言われています。逃げる途中で子どもを中国人に託した人も多くいました。「中国残留孤児」の発生です。
 柴さんのご両親も、苦難を重ね、途中ではぐれて、別々に帰国したといいます。それぞれ博多と和歌山の港に辿り着きましたが、どの経路を辿ったのか、定かでないそうです。
 そのとき、ご両親には3人の小さな子どもがいました。柴さんの2人のお姉さんと、お兄さんです。しかし食料がない中での逃避行の末に、子ども達は、次々に感染症にかかってしまい、亡くなっていきました。小さい子から順番に、わずか2ヶ月の間にだったそうです。そのとき、お母さんは亡くなった子を、一晩中、胸に抱いて寝たそうです。
 命からがら帰国したご両親が再会し、その後に柴さんが産まれました。柴さんのお名前の「洋子」には、遠く海の向こうから帰って来て、授かった娘という意が込められていたのかもしれませんね。その後、ご両親は、柴さんの弟さんも授かりました。
 そんな柴さんが小学生になったときのこと、家の祭壇に小さな箱があるのを見つけました。箱をふってみるとコトコトと音がします。ご両親の友人が、埋葬した子どもの遺体を掘り返して、骨の一部を持ち帰ってくれたものだったそうです。「これは何?」と問うと、「お前の兄さんのお骨だよ」とのことでした。
お母さんは、お姉さんやお兄さんが亡くなったときに、わが子を一晩抱いていた話を柴さんにしたそうですが、幼かった彼女は、思わず「いやだ。気持ち悪い」と言ってしまったとか。お母さんは、悲しそうに黙って俯いてしまったそうです。柴さんの胸には、そのことへの痛みが今でも残っているそうです。
 話を聞いて、私はここに柴さんがアマアたちに関わり続ける原点があるような気がしました。それは戦争を心の底から嫌い、平和を愛する気持ちです。同時に、戦争の被害者に心の底から寄り添い、その痛みを少しでもぬぐい去ろうとする思いです。
 太平洋戦争において、日本はアジアの人びとに、塗炭の苦しみをあじあわせました。しかし同時に日本政府は、国内の多くの民衆にも塗炭の苦しみをあじあわせたのです。大恐慌の末に「満蒙開拓」に国内の貧しい人びとを甘い言葉で誘い出して送り込み、戦争末期には、迫り来るソ連軍を前に何ら守る手段も取らず、しかも命からがら引き揚げて来た人びとにも、何らの手当をしませんでした。国家的な棄民政策が行われたのでした。
 その犠牲者の子孫の1人が柴さんです。彼女もまた日本政府の圧政と失政のサバイバーの1人なのです。その点では実は私もその一員でもある。母が東京大空襲の爆心地にいたからです。彼女は本当に奇跡的に助かった。私はその息子です。父もまた寸前で広島原爆の被害を免れたので、私は東京大空襲と、広島原爆の狭間から生まれた子です。
 多くの島民が亡くなった沖縄の人びとは、そのほとんどがサバイバーです。こうした話は、実は私たちの周りにたくさんあります。そしてその多くに対して、日本政府は補償をしていません。いわんや原爆を落とし、都市空襲を繰り返し、沖縄に鉄の暴風を浴びせたアメリカは、謝罪もしないどころか、未だにそれらを正義だったと言い放っています。そんなアメリカに対して、私たち日本人は、まだ一つの賠償請求裁判も起こせていない。
 なぜだろうか。私にはそれは、日本が行ったアジア侵略の真摯な反省がなされていないことと対になった問題であると思えます。それこそアマアたちの受けた苦しみに、きちんとした謝罪も賠償もできていないこと、それが日本人が、あの戦争で受けた被害に対し、正当な怒りの声をあげられない根拠になっているのではないか。だからアマアたちの痛みは、本当は私たちの痛みと深いところでつながっていると思うのです。
 他者の人権を踏みつけたままの人は、自分の人権を踏みつけられても声をあげることができません。その意味で、日本政府に対して、勇気を持って弾劾の声をあげたアマアたちの叫びは、実は私たち日本人の人権を守ってくれている叫びでもあると私は思います。だから私たちは、その叫びに、自分のこととして答えなければならない。アマアたちの苦しみ、怒りの向こうに、戦争で無惨な思いをしていった多くの日本人の痛み、苦しみ、悲しみもまた横たわっているのです。
 柴さんの、長年にわたるアマアたちへの心温まる訪問には、そんな日本人自身にとっての重要な位置もまたあると私には思えます。それは日本の民主主義を育む行為のひとつでもあると思えるのです。もっとも柴さん自身は、「私は何もできていない。ただ楽しくてアマアたちに会いに行っているだけで、もっと本気で日本政府を動かさねばと、いつも自責の念にかられるんです」とおっしゃるのですが。

(11)ホエリンのお話
 さてショウメイアマアとの話に戻りたいと思いますが、もう一つ、ショウメイアマアにまつわるお話で、ここで脱線を許してもらいたいと思います。愉快な、愉快な我らが友、ホエリンについてです。
 アマアたちの現地でのサポートをするにあたって、重要な条件の一つは台湾語を話せることです。元々、中国大陸南部、福建省辺りの言葉であり、これらの地域の人びとが移り住む中で定着したと言われる台湾語は、台湾でもっとも普及した言語でありながら、戦後に国民党が大陸から移って来た後に、社会の中心から退けられてしまいました。国民党は北京語を国語として設定し、学校でも北京語教育に徹したのです。その為、今の台湾の若い世代の多くは、台湾語を話すことができないのだそうです。
 それに対してホエリンは、実に闊達に台湾語を操る。それがどのアマアの家にいっても、「アマア、アマア」と大声で叫んでは、その家の娘か孫かのように、瞬く間に溶け込んでしまえることの、一つのポイントにもなっています。それで私はホエリンに「どうしてホエリンは台湾語を話せるの?」と聞いてみました。
 すると、「両親が話していたからなの。私の近所もみんな台湾語を話していたわ」と彼女。「私は高雄の出身で、そこではみんな台湾語を話しているの。でも子どもの頃、国民党が学校で北京語を使えと命令していて、台湾語を話すと、罰金を取られたのよ」と、彼女はペロッと舌を出しました。きっとホエリンはたくさん罰金を取られたのだろうなあ。「日本でも沖縄で同じことがあったよ。沖縄の言葉を日本政府が罰したんだよ」と私が答えると、「ひどいよね」と彼女が答えました。
 そんな彼女が、アマアたちのサポートに入ったのは、2001年10月、9.11事件の直後のことでした。その頃、彼女はソーシャルワーカーの仕事口を探していて、とくにドメスティック・バイオレンスに関心があった。それで婦援会にアプライしたところ、この仕事があるときいて、やってみようと思ったのだそうです。
 参加した時に、ホエリンにとって一番、印象的だったのが、ショウメイアマアだったそうです。その頃のショウメイアマアは、声が小さくて、あまり話もしない静かで控えめなアマアだった。ところが婦援会のプログラムに参加し、自ら被害体験を仲間に語りだすに連れて、アマアの表情が変わり、性格が積極的になっていったといいます。「それは本当にドラマティックだったわ」と彼女。
 自らの痛みと向かい合い、それを言葉に表し、行動して行く中で人はこんなにも変わって行く。そのショウメイアマアの姿に、ホエリンは心を揺すぶられ、どれほど勇気をもらったか分からないといいます。そしてそうこうしているうちに、やがてショウメイアマアは、自ら証言集会の場にたつことを決意し、神奈川で初めての証言をし、そして二度目の証言として京都に来てくれたのです。その過程に寄り添いながら、ホエリンは、被害を受けたアマアたちが、証言を行うことの素晴らしさ、尊さを知ったといいます。
 「だからね。私はアマアたちが可能な限り、どこでも証言に連れて行ってあげたいと思うのよ。それは本当に素晴らしいことなの」。とても感動する言葉でした。同時に、それならなおさら証言の場を、アマアたちに、そしてハルモニやロラたちに、提供したいものだと私は思ったし、そのための努力を、ホエリンたちと共にしていきたいものだと思いました。彼女たちの活動も、アマアたちの勇気と並んでとても素晴らしい。
 
(12)炭鉱跡地にて
 この日は、そんなホエリンのプランニングで、ショウメイアマアがかつて暮らしていた炭坑の町を訪れることになりました。戦後、アマアはそこでかつての夫と一緒に20年間暮らしたそうです。
 朝、昨日と同じく2台の車がホテルに迎えに来てくれました。その中にすでにショウメイアマアが乗っていました。さっそく駆け寄って挨拶しました。アマアはとてもお元気そうです。この日のために、ショウメイアマアがいろいろと準備をしてくれていることを、ホエリンから聞いていました。一つは僕のために、ビールを買い込んでくれていることです。もう一つは、最近になって一生懸命に日本語を練習していること。わざわざテープに吹き込んで繰り返し聞き、さらに柴さんたちとホテルで練習したりもしているとか。でもそれだけだと思ったら、大間違いなのでした。
 この日はさらにホエリンの新聞社の同僚で、アマアたちの写真を取り続けている沈君帆(シェンチュンファン)さんが一緒でした。彼のGPSシステムのついた車で来てくれました。“Today, we need no U-turn”とホエリン。ま、今日は大丈夫かな。
 一行は台北から北東に進んで港町の基隆(チーロン)の手前で東に向かい、炭坑都市の瑞芳を超えて、少し南に下っていきました。駅名は候銅(銅のへんは石)です。
 出発前に柴さんが、ここでのアマアの生活について教えてくれました。その頃、アマアの夫は浮気性で、他の女性のところにばかり出入りしていて苦労したそうです。最後に亡くなったのも他の女性のところで、アマアは戻って来た亡骸にパンチをいれたとか。それでも炭坑の町は懐かしいらしく、前回、本当に久しぶりにみんなと訪れたそうですが、そのとき、駅前の食堂のご店主が、アマアのことを覚えていて呼び止めたといいます。当時、アマアはいつも金のネックレスをしていて、目立っていたので覚えていたそうです。「アマアはご主人が浮気して歩き回っていたから、いつも何かのときのために、全財産を身につけていたのだと思うのよね」と柴さん。アマアにとって金のネックレスは、とても大事な意味を持っていたのでしょう。
 車の中で、そんな話をジェンユとも話しながら、現地に到着しました。天気も最高です。炭坑の町の近辺は、海岸の際まで山がせり出しているリアス式の地形の場所でしたが、少し海岸から奥に入ったここは、山並みの緑がきれいで、とてもさわやかでした。
 駅前につきました。驚いたのは、炭坑から鉱石を運び込み、貨車輸送のために精錬をしたであろう大きな工場が、完全に朽ち果てた姿で、そのまま駅前に残っていることでした。
 工場はもともと戦前に日本人が建てたものだとか。当時、石炭は燃料の中心でしたから、戦争のための日本の増産の為にふる稼働したのだと思われます。戦後は、地元の台湾人のお金持ちがまるごと工場を接収し、生産を継続したそうです。工場の前には原っぱが広がっていて、その向こうに川が緩やかに流れています。工場からは橋がかかって対岸に続いている。対岸に炭坑があって、鉱石を、橋を通じて工場に運び込んでいたようです。駅からは貨車で基隆港に運んだのでしょう。
 原っぱの中に建っている平屋建ての建物の庇の下にみんなで座りました。ホエリンがケーキを出します。今日はブルーベリージャムがたくさんのった違うもの。今回もまた蝋燭を立てて火をつけました。風にあおられながらも、燃え続ける灯火をみながら、みんなで手をたたいて合唱。最後にアマアが火を吹き消して入刀しました。再びテキパキとケーキが切り分けられ、みんなに配られます。うっ、今日のケーキはさらに甘いぞ。
 それからみんなで、今にも崩れそうな工場の階段を上がっていきました。工場の上まで来て、橋を渡りました。トロッコの線路の跡が残っています。ゆっくり橋を渡ると、橋のたもとに会社の事務所の建物も残っていました。そこから川に沿った道沿いを車でさらにあがっていきました。かつてトロッコが走ったところで、ところどころに朽ち果てた関連施設があります。道が狭くなって、幾つかの廃屋をすぎたところで、車を停めました。アマアがかつて住んでいた家だったとのこと。アマアがいろいろと説明をしてくれます。
 「ここは昔はもっときれいよ」「私、ここにいたよ」。浅井さんがずっとぴったりと横について歩いている。アマアは車の中でも、歩いている時でも始終話し通しです。台湾語に日本語がまじる。アマアは初めてあったころに比べて、驚くほど、日本語が上達している。
 アマアのもといた家からさらにトンネルをこえて、奥に進みました。いくつかの坑道入口があり、ブロックで塞がれていたものの、わずかに覗き込めるほどの窓があいていました。アマアはここで死んだ人たちの魂が、出入りできるために窓が明けてあるという。炭坑の仕事は危険が多く、数えきれないほどの労働者が命を落としたのだそうです。
 もときた道を戻って、もう一度アマアのもといた家の前を通りました。そこにも線路の跡がありましたが、アマアはそこで、「ここからときどき石炭を取ったよ」と、トロッコから石炭を失敬した話をしてくれました。大きい石炭を抱えたフリをするアマアの仕草が何ともおかしく愛らしい。
 周辺にはいまでも民家があり、少し離れたところで地元の女性達が談笑していましたが、アマアが話しかけると、なんと昔の知り合いの娘さんであることが分かりました。しばし彼女と談笑するアマア。たとえ夫の辛い思い出があろうとも、かつて長らく住んだ場にみんなと訪れたことは、アマアにとって嬉しいことだったようです。

(13)「悲情城市」に立つ!
 炭坑跡地を後にしました。車で少し走ると、海岸線に出て、ぐんぐん高度があがっていきます。海までせり出した丘陵の縁を駆け上がって行く感じです。すると突然、極彩色の寺院が見えてきました。また山肌にへばりつくようにしていろいろな建物が建っています。いつのまにか、たくさんの観光バスとも合流しました。どうやら観光地のようです。
 さきほどの廃墟からわずか数十分ぐらいでしょうか。そこはとても華やかな場でした。車を降りると人の渦。次々と大型のバスが通り過ぎて行きます。ここは九份(チョウフェン)という著名な観光地。なんと映画『悲情城市』のロケ地になったところなのでした。
 入り口から両側にたくさんのお店がある細い道が長く続いています。狭くなった夜市のよう。土産物屋、食べ物屋が交互に並び、美味しい匂いが漂っている。その中をホエリンを先頭にずんずん歩いて行きます。ショウメイアマアは浅井さんと腕を組んでいました。
 途中でアマアが私に烏龍茶を買ってくれると言い出しました。最初はお断りしましたが、アマアの思いは良く分かるので、いただくことに。ワンパックだけもらおうとしたら、日本語の上手な店のおばさんに、3つも渡されてしまった。でもとてもありがたいことです。
 暫く歩き続けると、ホエリンがこっちこっちと手招いて、お店の中に入って行きました。名前は、「紅糟肉圓」。そこで今までみたことがない食べ物が出てきました。紅糟肉のことなのですが、肉まんほどの大きさで、寒天のような半透明の外皮の中に、赤い具が入っていました。箸で割って食べてみると、甘い肉と具が入っていて、なんとも変わった風味があってグットです。でも私は上にかかっている香菜が苦手。横によけて食べました。
 食事を終えてさらに進んで、チャイナ風の服が並べてあるお店にみんなで入りました。さっそくわいわいと品定めの開始。暫くしてアマアが、これがよさそうだと手に取ると、みんなが囲んで上着を脱がせてしまい、そのままアマアに着させてしまいました。鏡を見てにっこりと笑うアマア。
 このお店を出ると、その横に、下に向かって、とても長い階段が続いています。両側に赤い提灯がえんえんとならんでいる。この場こそ『悲情城市』のロケ地なのでした。そこをみんなで下ると、ロケに使われたお店が出てきました。「阿妹茶楼」といいます。日本語で「あめおちゃ」とルビがふってある。その入り口に1人立って、アマアが戯けたポーズで店員の真似を開始。「いらっしゃいませ。中へどうぞ」。流暢な日本語です。
 さらにもう少し下って、海を見渡せるデッキのついた茶店にみんなで入りました。そのあいだにホエリンが、全員にひとずつ、台湾のかき氷とあんみつがセットになったようなものを買い込んで来ていました。席につくやそれが配られます。かき氷の上から、熱々の小豆やお餅を汁ごといれたようなものです。とてもおいしいのだけれど、これを全部食べたら、この先、どうなってしまうのだろう。さらに注文したお茶やジュースが出てきましたが、みんなアメリカンサイズ。全部飲んだらもうそれで終わってしまいそうです。
 デッキでは、遠くに美しい海を眺め、リゾート気分をたっぷりと味わいました。その間にまた柴さんがアマアに写真の束をプレゼント。アマアは嬉しそうに見ていました。

(14)ショウメイアマアからの贈り物
 観光地から引き揚げて、今度はアマアの住む桃園の町に行きました。台北と新竹の間で、国際空港の近くです。そこで娘さんとお孫さんが経営するお店に連れて行ってもらいました。お店の名前は「牛肉麺疱塔(塔は土へんではなく病だれ)」。とても繁盛している。
 二階に案内してもらいました。暫く待つと出て来たのは、豚肉や魚のすり身、野菜の入った薄味のスープと、牛肉湯(ニューロータン)です。どうもこの牛肉麺・湯は、とてもポピュラーらしい。八角などの香辛料の効いた濃い茶色のスープに、牛肉の味が溶け込んでいる。私はこれがお気に入りになってしまいました。他にも台湾豆腐の炒め物や、チャーハンなどがならぶ。ちなみにチャーハンの台湾語はサーピャンといったところです。
 またまたお腹いっぱいに食べました。ここはアマアが払うといいます。毎回、いやここは私が、という話になりますが、アマアのおもてなしの気持ちも大事にしたい。ところがアマアが支払いにいくと、娘さんが飛んで来て、とんでもない。お母さんに払わせるわけにはいなかいと、お金をお財布に戻してしまいました。そして浅井さんを見て、日本語で話しかけてきました。「あなたのこと、お母さんからよく聞いています。」そして、浅井さんが京都の温泉で、アマアの背中を流してあげたときのことを手真似しました。さらに「私があなたのおねえさんで、あなたが妹ね」と彼女。アマアを囲んで3人でポーズを取って、写真に納まりました。娘さんはアマアの証言にはあまり理解がないと聞いていましたが、関係が前よりよくなっているのかもしれません。とても温かなおもてなしでした。
 食事も終えて、アマアの家に辿り着きました。広めのマンションの中は、きれいに掃除がしてあって、アマアがここで、ゆったりと生活をしていることが伝わってきます。
 部屋に入ると、アマアが台湾ビールを出してくれました。「台湾に来たらね、台湾ビールがおいしいよ」とアマア。どんどん僕についでくれます。それに清酒も用意してくれていたのでした。重かっただろうに、こつこつと部屋まで買い入れてくれたのですね。
 私たちもアマアに特別のプレゼントを用意してきました。これまでおばあさん達の全てに、京都の干菓子や、京風柄のハンカチ等を配ってきましたが、アマアには、母の日のプレゼントとして、丹後ちりめんの素敵な服を買ってきていたのです。
 アマアはさっそく試着してくれました。鏡の前にたって、「うん。ちょっといいね」と照れ笑いしてくれました。するとアマアが、浅井さんを寝室に呼び寄せました。そして薄いピンクのチャイナ服を手渡し、さらに布団を押し上げ、シーツの下から赤い袋を取り出したのです。なかから出て来たのは、なんと金のネックレスでした。しかもずっしりと重い。浅井さんは目の玉が飛び出るほど驚いてしまいました。
 これにはいきさつがあります。京都で温泉にいった日の夜のこと、「今日は嬉しかった。桐子がずっとそばにいてくれた」と涙ながらに話すアマアに、私たちは「アマアのことを本当のお母さんだと思っているよ」と話しました。するとアマアは「でも私は貧しいんだよ。子どものお前たちに何もしてあげられないよ」といって涙を流しました。「それじゃあ、台湾に行くからアマアの手料理を食べさせて」というと、「私は料理が上手じゃないんだよ。だからお前たちに、おいしいものを食べさせてあげられないよ」と泣きます。浅井さんが手をとって、「それでもいいのよ。アマアがいてくれればそれでいいの。必ず台湾に行くね」と話しました。こうして浅井さんと私とアマアの約束が結ばれたのです。
 ところが翌日、アマアは決然として、私たちに「金を買う」と言い出した。台湾では産まれた我が子に金の指輪を買い、足の指にはめてあげる習慣があるそうです。我が子がお金に不自由しないようにとの願いをこめてです。でもこのときは、私たちは狼狽して、なんとか金を避ける?算段をしました。結局、金閣寺のお土産物屋で、浅井さんが金をほどこした小さなネックレスを買ってもらいましたが、アマアはそれでは不服だったようです。
 そして今回、本当に素晴らしいネックレスを用意してくれたのです。これは重い。アマアの思いが本当にここにこもっている。みんなの前にネックレスを披露しながら、浅井さんは「もう、この先、アマアに貢ぎ続けるしかありません」と言いました。万感の思いがこもっていて、ホエリンが「訳して、訳して」と、私に視線を投げましたが、これはどう英訳したらいいものか、とっさに考えつかなかった。こんなとき、どんな言葉がいいのでしょう?I have to contribute for grandma forever.・・・うーん。
 楽しい宴が続きます。証言集会実行委の村上麻衣さんが近々、結婚することをたまたま話すと、ホエリンが俄然、ご祝儀を出すと言い出す。いやアマアの服を一ついただけたらありがたい。いや台湾スタイルとしてはお金を受け取ってもらわないと困る。いや、お金では申し訳ない、とかいう感じで交渉?がスタート。結局、アマアとホエリンとリーファンであわせて1万円のご祝儀を頂くことになりました。さらにアマアは、かわいいネックレスを出してきて箱に入れてくれました。贈呈式を行い、浅井さんが代理で受け取って、写真をパチリ。さらに村上さん宅や、ほかの京都のメンバー宅に直接電話をかけました。
 「私、あなたの話していること分かる。でもうまく答えられない。日本語うまくできないよ。でも今度また台湾に遊びにおいで」とアマア。それだけできれば立派ですって。
 そうこうしているうちに、いつしか午前0時をまわってしまいました。楽しい一時の終わりです。アマアはわざわざマンションの下までおり、柵をくぐり出て、道まで見送りに出て来てくれました。自動車に乗り込んだ私たちにいつまでも手を振ってくれました。そのアマアの顔を写真におさめて、長い訪問の一日を終えました。

おわりに
 翌日、私たちは、朝早くにホテルを出て、空港に向かい、京都の地までまっすぐに帰ってきました。今回の訪問では、7人のアマアたちにお会いすることができました。またジェンユさんという新しい友人ができました。
 たった3日間のことですが、お寺をまわったり、2.28記念館や基地跡地に行ったりして、台湾のいろいろな断面を見ることができました。こうした体験も、アマアたちの勇気ある叫びが源にあって実現したことです。アマアたちの声が、私たちをアジアの素顔に導いてくれている。同時にそれは日本と私たちが進むべき道を教えてくれているものでもあります。全てのアマアたち、婦援会のスタッフと柴さん、中村さんに心の底から感謝しながら、私は私の道を、今後も歩んで行きたいと思いました。

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